前提:「ゼロから集客」の現実
Jリーグのトレーナーとして10年間働いてきた。でも、それは「クラブが選手を連れてくる」世界だ。自分から患者さんを集めたことは、一度もなかった。
そのまま妻の地元・館山市に移り、スナック跡地の元テナントで治療院を開業した。2014年2月のことだ。
プレオープンの約半月で来た新規患者さんは17名。売上は6万円。技術的な自信は積み上がっていくのに、パソコンに打ち込む数字が全然追いつかない。
「待っていてはダメだ」。それだけわかっていた。でも、何をすればいいか、まったく知らなかった。
①自分のバックボーンで、最初の接点を作る
まず動いたのは、唯一の武器であるサッカーの世界だった。10年間Jリーグにいたという事実は、この町では珍しい肩書きになる。それを使わない手はない。
ただ、ここで大事なのは「売り込みに行かなかった」こと。「ヴァンフォーレ甲府でトレーナーをしていた矢上です」と挨拶し、ただ一緒にいる時間を作った。治療院の宣伝は、ほとんどしなかった。
「知ってもらうこと」が先。「来てもらうこと」は後でいい。この順番を守ることが、田舎の人間関係では特に大切だと感じた。
②経営者の集まりに、片っ端から顔を出す
治療家が通常のマーケティングを考えれば、「ターゲット層を絞る」「SNSで集客する」という話になるだろう。でも当時の僕には、そんな知識もなければ、選ぶ余裕もなかった。
だから、とにかく片っ端から行った。
朝イチで経営者の勉強会に出て、スーツで戻ってきて午前の患者さんを診て、昼に少年サッカーの練習を見に行って、夜はフットサルに参加して飲み会までついていく。僕のスケジュールは、治療院の予約ではなく「人と会う約束」でびっしり埋まっていた。
「とにかく、人に会いまくる」——それだけが、戦略と呼べるものだった。今思えば呆れるほどシンプルだが、当時の僕にできることはそれだけだった。
この行動は確かに成果を生んだ。春から夏にかけて、売上は右肩上がりで伸びていった。人に会った分だけ、患者さんが増えていった。
③「辞める」と言いかけた場所に、居続ける
夏を過ぎた頃、売上の伸びが止まり、通帳の残高が100万円を切った。父に電話して「支出を止めろ」と言われ、あらゆる会合を断ち切ることにした。
一つだけ、どうしても決断できないものがあった。青年会議所(JC)だ。
会費の支払いも厳しい。「辞めようと思います」。そう伝えに行ったまさにその日、JCの理事長と副理事長が治療院にふらりとやってきた。二人とも施術を受けて、お帰りの際、何も言わずに回数券を買っていった。
「これで会費を払えるだろ。だから辞めるなよ」——そう、僕には聞こえた。言葉のない、しかし、あまりにも雄弁なメッセージだった。
結果的に、JCに居続けたことは、その後の経営に大きく影響した。翌年の委員長就任、150名規模の講演会成功、そして今の人との繋がりも、JCを辞めていなければなかったものだ。
「居心地が悪くなった場所」を離れるのは簡単だ。でも、その判断を少し保留してみることで、見えてくるものがある。
それでも通帳は減り続けた。気づいたこと
正直に言う。この「人に会いまくる」作戦は、売上は上げてくれたが、通帳の残高は一向に増えなかった。
交際費、会費、異業種交流会の参加費……。売上と同じかそれ以上のスピードで、お金が出ていっていた。
売上は右肩上がり。でも支出も同じペースで増えていた。
「稼ぐ」と「残す」は、まったく別の話だった。
集客のために使ったお金が、集客で得た売上を食い尽くしていた。
「人に会う」こと自体は間違っていなかった。でも、そこに使うお金の管理を完全に忘れていた。この失敗が、後に父から「支出を止めろ」と言われた時の素直さに繋がったと思っている。
行動量は正義。でも「使ったお金」と「得たお金」を必ず追いかけること。集客コストを管理しなければ、売上が上がっても手元には残らない。
あなたのバックボーンは何ですか?
人脈ゼロの状態から集客を始める時、多くの治療家はSNSやチラシを思い浮かべるだろう。それは正解の一つだ。
でも僕がまずやったのは、「自分が10年間いた世界」を使うことだった。
サッカーのコネクションは、完全に別の文脈で使えた。Jリーグトレーナーという肩書きが、この小さな町では特別な意味を持った。それは、SNSのフォロワー数や広告費とは関係なく、最初の「顔が見える繋がり」を作ってくれた。
スポーツ指導の経験、前職での専門知識、地域活動の実績、特定のコミュニティへの所属……。何かしら「あなたならでは」の接点がある。それを使わない手はない。
あなたのバックボーンは何ですか? まだ使っていないものが、一つくらいあるんじゃないかと思っています。

